「今日の練習はこれで終わりにします」
授業後の部活が終われば、それからは部活動の時間となる。
運動系も文科系もそれぞれに活動をし、試合やコンクールに向けて日々張り切っている。
今日は2時間ほどの練習で終り、男子テニス部の部室には多くの部員が帰宅の為に着替えていた。
中等部から続く先輩後輩の関係はそのままだが、実力的にも他校との試合経験も手塚達2年生の方が強く多い為、実質的に3年生よりも2年生が中心になって動いていた。
「なぁなぁ、最近の手塚って帰るの早くない?」
ぼそぼそと隣で着替えている大石に話し掛けるのは、中等部時代からダブルスのペアを組んでいる菊丸だった。
「やっぱり、英二もそう思うのか」
「って事は大石も?」
「ああ…1週間くらい前からかな?手塚にしては珍しく慌てて帰るんだよな」
少し離れた場所で1人黙々と着替えている手塚は、リョーマが来てから帰宅の時間が早くなっていた。
部長や副部長という立場では無いが、手塚は元からの性格で先輩達よりも先に帰る事をしない。
部誌は相変わらず存在しているが、部長や副部長が書く事は全く無い。
何故なら高等部にはマネージャーがいて、部活の最中に全てを記入してくれるので、手塚は3年生が全員部室を出てから帰るようにしていた。
それなのに、今の手塚は着替えるとさっさと帰ってしまう。
「うん、それっておかしいよね」
「不二も変って思う?」
2人の会話に大石の隣にいた不二が加わって来た。
どうやら手塚の帰宅時間を気にしているのは菊丸と大石だけでは無かったようだ。
3人の視線を物ともせず、手塚は先程と変わらぬ速度で着替えていた。
「じゃ、俺が聞いてみるにゃ」
1番に動いたのは菊丸だった。
うだうだ言っていてもこれ以上先には進まないし、真相がわかるまではモヤモヤしたままになる。
それならさっさと聞き出せばいい。
1番わかりやすく、単純な考えだ。
「手塚〜」
「何だ、菊丸」
「最近さ、帰るの早いじゃん、何かあんの?」
菊丸の問い掛けに不自然さを感じて思わず横を見れば、不二と大石がこちらを見ているので、これは下手に誤魔化しが出来ないと判断し、仕方なく理由を話す事にした。
「…今、自宅で子猫を預かっているのだ。昼間は母に世話を任せっきりになるので、少しでも早く帰宅して手伝おうと思ってな」
「子猫?なぁなぁ、今から見に行ってもいい?」
手塚から出た『猫』の単語で菊丸の目はキラキラと輝く。
動物好きな菊丸は特に猫が好きなのだが家族が多いのでペットを飼う余裕が無く、しかも身近で猫を飼っていないので手塚の言葉に嬉々としていた。
「…今から?」
「うんうん、あ、今日は見るだけだから大丈夫にゃ」
見たら帰る、と言う菊丸に、手塚は少し考えてみる。
まだ月明かりが出るまで時間はあるし、リョーマを見せておけば早く帰っている訳にもなる。
手塚はこの菊丸の申し出を受け入れた。
「…お前達も来るのか?」
菊丸だけかと思えば、不二と大石も着いて来ていた。
「そうだよ。手塚がどんな顔をして猫の相手をするのか見てみたいじゃない。ねぇ、大石」
「いや、俺は…」
不二に話しを振られ、大石は少し焦っていた。
手塚の帰宅の謎が解ければいいだけであって、不二のようなからかいは無い。
大石にしてみれば、自分も不二と同じ意見だと手塚に誤解されるのは避けたい。
「そんなのどうでもいいじゃん」
不二と大石の会話などこの際どうでもいいのか、菊丸が「早く」と催促するので、結局は有耶無耶にしたまま4人は部室を後にした。
「あ、ちょっと待った」
書店の前を通り掛ると、菊丸が大きな声を出して店内に入って行った。
何事かと待っていると、お目当ての雑誌があったのかすぐに戻って来た。
「何を買ったんだ」
「えへへ〜、月刊プロテニスだよん。今月は発売日がちょっと早くなるって先月号にかいてあったからさ」
大石が訊ねると紙袋の中から自慢するように取り出し3人に見せる。
「へぇ、これがアメリカで噂になってるサムライジュニアなんだ」
「両親とも日本人で父親が元プロテニスプレイヤーなんだよね」
今月号はプロになりたての少年を特集しているようで、その少年の姿が表紙を飾っている。
「…手塚、どうかした?」
ただ1人、手塚だけは雑誌の表紙に写る人物に声も出なかった。
「ただいま戻りました」
いつものように玄関のドアを開けてl帰宅の挨拶をすると、家の奥から鳴き声と共にリョーマが姿を現す。
「にゃ〜?」
だが、何時まで経っても靴も脱がずに立ったままでいる手塚を見上げれば、優しい笑顔を見せてくれるが、それっきりで何もしない。
「あ、ホントに猫だにゃ、しかも真っ黒だにゃ〜」
ひょこ、と手塚の背後から菊丸が顔を覗かせると、リョーマの視線は手塚から菊丸に移る。
「にゃ?」
「うわっ、可愛い〜」
「にゃう?」
菊丸は口をだらしなく開けてリョーマの頭を何度も撫でる。
初めて見る人間に対して特に恐怖感は無いが、次の人間が顔を出した事で一気に変化した。
「…へぇ、黒猫なんだ」
菊丸が視線を合わせるようにしゃがみ込み、その後ろから不二が出て来て声を出した瞬間、リョーマの全身の毛が逆立ち、尻尾は2倍に膨らんでいた。
小さな牙をむき出しにして不二だけを威嚇している。
「どうした?」
手塚が声を掛けても、リョーマは「フーッ」と怒り全開で威嚇する。
こんな態度を取るのは初めての体験なので、手塚の方もどうして良いのかわからずにいた。
「ありゃりゃ、怒っちゃダメだにゃ」
引っ掻かれても咬まれてもいいと、菊丸は宥める為に手を出した。
頭を撫でても喉を撫でても、リョーマは不二だけを見ている。
「どうやら、僕は嫌われたみたいだね」
威嚇の対象が自分だとわかると、不二は苦笑いを浮かべていた。
「あまり人に慣れていないのかな?」
大石が慌てて助け舟を出すが、不二はそれほど気にしていない様子だった。
菊丸が抱き上げてみるが、じたばたと暴れてしまうだけで、結局は菊丸の腕からすり抜けると、この場にいたくないのか家の奥に走って行ってしまった。
「…あ〜、行っちゃったにゃ」
残念そうにリョーマが走って行った先を見つめるが、二度と戻ってこなかった。
「珍しいよな〜、不二が嫌われるなんて」
嫌われた対象が自分では無かったが、どちらかと言えば動物に好かれる確立は不二の方が高い。
穏やかで優しい笑顔は女子だけでなく動物にも通用するようで、これまでも不二だけに懐く動物は多かった。
「僕も初めてだよ。ちょっと驚いちゃった」
手塚の猫に対する態度よりも、猫が取った不二への態度の方が強烈だった。
3人が帰ると手塚は急いでリョーマを探す。
リビングにもキッチンにもいないので、残るは自分の部屋しかない。
「リョーマ?」
「…にゃ」
猫用の寝具の中に隠れていたのか、のっそりと顔だけ出して辺りをキョロキョロと見回し、部屋の中に手塚しかいないのを確認すると安心したように出て来た。
「あいつらはもう帰ったぞ」
先に着替えを済ませると、菊丸がしたようにリョーマを抱き上げれば、リョーマの方から顔を摺り寄せていた。
「にゃう…」
手塚を見上げるその瞳には不安だけが滲んでいた。
「訳を教えてくれるか?」
猫のままでは話が出来ないので手塚は夜になるのを待っていた。
菊丸達が来てからのリョーマは、食事中でも入浴中でもどこか落ち着かない様子でいたので、人間の姿に戻ってから抱き締めて訊ねていた。
「…何で水の王が…」
「水の王?どこに」
リョーマの呟きを訊いて、眉をしかめる。
「どうして?何でここに来るの?」
顔を上げたリョーマは逆に手塚に訊ねていた。
「…まさか、不二か?」
怯えるように見上げるリョーマに、先程の玄関での様子を思い出す。
初対面から家族にも慣れた様子で接し、菊丸にも様子を窺いながらも全く警戒していなかったのに、唯一人、不二だけには猛烈に威嚇していた。
「…不二?もしかして不二周助?」
「何故名前を知っているんだ」
「だって、水の王の本当の名前は不二周助…」
「だが、あいつらは中等部からの付き合いだ。ほら、これを見ろ」
手塚は衝撃を受けながらも本棚の中から中等部の卒業アルバムを取り出し、不二が写っているページを開いてリョーマに見せる。
「そんな…じゃあ…」
アルバムの中にいる不二は今よりも少し幼い顔をしているが、この頃からこちらの世界にいるはずは無い。
どうしても信じられないリョーマに更に手塚は続ける。
「これは推測なのだが、お前の世界と俺の世界には同じ顔と名前を持つ人間がいるのかもしれないな。実は俺もこの世界のお前が写る雑誌を見た。プロテニスプレイヤーになりたての少年だが、名前は『越前リョーマ』と書いてあった。どうだ、他の2人に見覚えは無かったか?」
菊丸が買った雑誌には、リョーマと同じ顔、同じ名前の少年が写っていたのだった。
両親は日本人で、父親の方は手塚も知っている有名なプロテニスプレイヤーだった。
しかし彼は生まれてから今までアメリカ在住で、日本には一度も来ていない。
「そういえば、ずっと後ろにいた人って…あっ、そうだ、あの人は聖の王だよ。本当の名前は知らないけど、何度か見た事がある」
「大石が聖の王か。なるほど、なかなか似合ってるな」
常に周囲に気を配り、中等部の頃からお母さん的な存在で、大石がいるだけで安心すると言う部員がいるのは確かだ。
しかし、不二と大石がリョーマの世界では王として君臨しているのなら、他にもいる可能性がある。
「リョーマは全員の王と面識があるのか?」
「…全員じゃないと思うけど…」
記憶の中から引っ張り出そうとするが、どうしてもある一定期間の記憶だけが出て来ない。
断片的に思い出せる部分を必死に繋ぎ合わせて、何とかもう1人の王を思い出したが、それ以上の記憶は出て来なかった。
「思い出せないのか」
「…うん。でも思い出したい」
「無理をするな」
リョーマは頭痛や吐き気を我慢しながら必死になって記憶を取り戻そうとする。
全てを思い出したらここからいなくなってしまいそうで、手塚はリョーマを止めるしかない。
意識を自分だけに向けるように、手塚は強く抱き締めた。
あれから数日が過ぎても、不二が手塚の家に来る事はなかった。
手塚の話しによれば、不二は全く気にしていないらしく、逆に「楽しみにしていた英二に悪い事しちゃったね。僕は行かないから英二には会わせてあげてよ」とまで言っていたらしい。
だが、不二達と出会ってしまった事で、リョーマの封じ込められた記憶が解かれるのは時間の問題だった。
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